石井浩一郎の人生

バイクへの興味と夢

きっかけは 10 歳の頃、 当時、スクーターに乗っていた 姉が持っていたアライヘルメット これが僕の⽬にはすごくカッコよく映った
そこからバイクに 興味を持った。 ⺟親にレーサーになりたいと⾔ったら
⺟⼦家庭でそんなことはできないでしょー の⼀⾔ そんな⾔葉を受けても
気にせずにバイクの TV を観たりしていた
中学時代には漫画バリバリ伝説を読んだり
当時流⾏していた⾛り屋の雑誌バリバリマシーンを⾒たりし て、バイクに関する世界を楽しんでいた。

オートバイレーサーへの道 高校生の頃

念願の2輪免許取得可能な⾼校⽣になったが
⼊学した⾼校がバイクを禁⽌していたため厳しい状況だった。
ただ学校の裏にレーシングチームがあったことが 奇跡への⼀歩
ガレージに⾏ってレーサーになりたいって 伝えた
お⾦の話とか確かしてもらった 学校いきながら コンビニでバイトしまくった
教室で友⼈が 今⽇、バイクきたの︖︖ 僕の後ろには担任がいました
そのまま僕は停学になりました そのついでに
担任に学校辞めてレーサーになるって ⾔ったら驚いてた
⾼校は夢を決めていい場所︕ 出来ないのであれば このまま辞めるって
その思いが通じたのか サーキットだけは OK と許可もらった
週末はチーム員のレースの⼿伝いで 仙台にあるサーキットまで通った
⼤好きなライダー「フレディー・スペンサー」
への憧れを抱きながら在学中は NSR50
とスクーターで松⼾サーキット、岩井サーキット、⽇光
サーキット、桶川サーキットなどのミニバイクコースを⾛り回 った。
時効ですが ちゃっかり街乗りバイク買って乗ってました

高校卒業後

卒業後は卒業⽣で唯⼀ 就職活動はせずに フリーターとして
レーサーを⽬指します。 ミニバイクも乗りつつ 筑波サーキットでNSR250
に乗って練習開始︕
ところが気持ちが落ちて 僕は本当にレーサーになりたいのか︖︖ って
部屋の中にある全ての バイクに関わるものを処分して 1年間
バイトに明け暮れた お花屋さんしていたお友達が もしよかったら
⼀緒に働かない︖って それに応えて お花屋さんデビュー
そのお友達が趣味でモトクロス乗っていたので 僕も楽しみを⾒つけるために
モトクロスに乗り始めた
すごく楽しくて楽しくて
初めてバイクに乗った時の
楽しくてワクワクする感情が戻ってきた。

レース活動再開

レースは スポンサーがいないと⼤変だよとアドバイスをもらうも
如何出会うものなのかも当時の⾃分にはわかるはずもなく
ともかくいろんな仕事してみた 建設作業員 鳶職 夜の飲み屋さんでバイト
いろんな経験をした そこで出会った社⻑さんに ⼀⾔⾔われたのが
『君は他にやりたいことがあるんじゃないの︖』
とその時すぐにレーサー⽬指してますって 即答した じゃー明⽇
ここに来なさいって そして⾔われた場所に⾏って 話をしたら
その場でスポンサーになってくれることになって
夢が叶った⾼揚感を味わえた
もてぎで開催されるもてぎ7時間耐久レースを⽬標に
マシン作りと練習開始
マシンが出来上がって 練習を兼ねたレース参戦
予選は初めての筑波で最後尾⼀つ前︕
決勝は最終コーナーで
転倒リタイヤでした。
12 ⽉末⼀般道⾛⾏中に追突事故に巻き込まれて
病院に搬送 右⼿が動かなくなり約1ヶ⽉⼊院することに…

リハビリと再起

病院でいろんなリハビリをするも
いい状態にならず…
半ば諦めの気持ちが強くなって
その時、⾃分の置かれている状況を受け⽌めた。
その 1 ヶ⽉後少しずつですが右⼿が動くようになる
⼩銭が持てるくらいに回復
半年後
つくばサーキットで
ぶっつけ本番のレース参戦
予選ギリギリ通過
決勝戦︕
グリッドにつくために⼀周⾛⾏中にシフトペダルがなくなる
メカニカルトラブルでそのままリタイヤ
これをきっかけにチームを離れる。
今後の⽅向も⾒えないまま半年過ごして2000年7⽉
急に思い⽴ち
四輪 A 級ライセンスを習得するため
⽇産のレーシングスクールに申し込む
初めての北海道 ⼗勝インターナショナルスピードウェイ
初めてクルマで⾛るサーキット
気持ちよかった︕
帰ってきたら
連絡が︕︕︕
8 ⽉末に開催される
もてぎ 7 時間耐久レースに出ませんかと︕
⾊々準備して参戦することに…